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昭和54年3月9日 朝の御理解
御理解 第一節 「今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」
昨日は福山の方達が18名団体参拝をして参りました。私が昼からここへ出ます間の時間を、先だってからの月次祭の模様とか お説教をビデオで見たり聞いたりさせて頂いて、それが、たまたま福山の方達のことを話の芯にして話しておった、それを聞いているんですね。また家の修行生の方がたから、それを聞いてもらったのかも知れません。けれども、とにかく、おかげおかげと目先の事ばかりを言うと、もう、皆が人間と言うものは、楽な方へと走って行きたがるもんだと福山の或るご信者がお参りして来て、出がけに丁度嫁さんが産気づいた、だから、どうぞお名前を頂かして下さい、という、あのお話がしてあったのですね。
それで私としては、その名前を頂くという事よりも、安産のおかげを頂く いう事の方が先じゃないか、と言おうと思いましたら神様がお知らせ下さった裕子(ひろこ)という名前であった。だから、その通りの事を書き下げてやって生まれる前から、こうして、お名前を頂いたと、その喜びいっぱいで電話室に行ってから、こうしてお名前を頂いたよ、今度生まれる子供は娘だよと言おうと思って電話室にいったら、電話が掛かってきた、電話を受けたら娘の子安産の知らせであった、というお話を聞いて、ま、本人はその事を大変喜んで帰って皆さんにその事を話しただろう、という話しをしました。ですから、その4・5日後に、また団体参拝して来た方達が、いく人も、ま、それと同じような事を、ね。お伺いがあった、と。
売り出しをしたいと思うが、景品を、というか、進物のものを作りたいから、何百だん作ったらいいだろうか、と言うような、そのお届けがあった事を例にとって、そういう事が聞いたり、わかったりすることによって、便利をして、おかげを頂いた、といったようなおかげでは、だめだという話しをしておるのを、昨日、皆で聞いて、ここで、その後、私が坐ったら、すぐお届けに見えた方が、も、今日は大変結構なおかげを頂きまして、ね。もう本当に目が覚めたように、おかげ、御利益の信心から 信心を合楽に、わざわざ、ここまで来るのだから合楽の信心を頂き、いよいよ合楽理念をもっともっと、本当にわからせて頂く、という事に一同が、その気で合楽通いが出来ますように、と、いうお届けがあったんです。私は、ま、言うならば、ね。金光教の信心を病気治し、災難除けの神のように思うておったものが、ね。信心とはいよいよ、ね。立教神伝にございますように
「神も助かり氏子も立ち行く、氏子あっての神、神あっての氏子、繁昌いたし未々、親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行く」
ところの世界というものが、顕現される、これは、も、金光教の言うなら、信心目標なんです、ね。私共だけが助かると言う世界ではなくて、神様と共に助かっていく、と、いうことが、とりもなおさず ね、神様と氏子が合楽し合えれる、そこから生みなされるおかげの事を、ね。言うのです。だからどうでも合楽理念をマスター、合楽理念を行じ合楽世界を顕現していく、という、それが金光教の信心なんです、ね。
私共でも、わかっているようであって、いよいよ、やっぱり、おかげの方に だから昨日は申し上げた事でしたけれども、ね。そういうおかげも頂いて行かなきゃならん、人間でもわからん事はあるし、ね。お伺いをしなきゃならん事もあるんですけれども、ね。その信心と、いわゆる、この信心とが、言うならばあいよかけよ、でなからなきゃならない、あいまったものでなければならない。そして信心を進めていかなければ、ならないを、ま、申しました事でした。
丁度、昨日は宮崎の日向教会の滝口先生も大祭のお礼参拝して来とりましたから、ま、一緒に三時の研修頂いて、そして、ま、帰られましたんですけども、滝口先生も、やっぱり、そうです。あそこの信心は、夫婦のものが、どこに焦点を置いとるか、と、言うと、もう「くの一修行」に、かけてある、と言われるのです。
今度の大祭なんかと言うのは、もう教会始まって初めての80何名のご参拝があった。もう、それこそ、まぁ、大分になりましょうけども生々とした、とにかく、お広前に坐れずに、お縁の方を開放してそれでお縁の方にも畳を敷いたらよかろう、と言うて、お話が出たら、その晩早速、ある信者が私の方に丁度、これだけ畳が余っとりますから、と言うて、お縁にも畳を敷き詰めた、というような働きがおこっておる、ね。いわゆる、くの一修行と言うのは、もう何事にも修行の伴はないはずはない、ましてや信心に修行が伴わないはずはない、ね。その修行の第一は、なら、くの一と言うのは、ね。くを修行と言うのですから、くの一と言うのは、も、修行の第一と言うのです、ね。金光様のご信心させて頂いて、修行の第一、と言うのは色々な修行があります。なら、金光様の信心を百年間の振り返ってみてご比礼を頂かれた、おかげを頂かれた、と言う教会での先生方、というのは様々な修行をなさったんですね。それこそ、火の行、水の行、あられもない行をなさったんです、ね。
教祖様は、そこんところを「この方の行は火や水の行ではない家業の行」と、または「表行よりは心行」と、または「天をとって道を開くものは、あられぬ行もするけれども後々の者は容易うおかげを頂かせる」とも言うておられるのです。わからない、ね。過去、様々な信心と言うのは、水の行、火の行断念の行、と言ったような行をすることが信心のように思うておった、だから教祖とてもやはり、一応なさったんですけれども、ね。後々の者に容易うおかげの頂ける、言うならば、心行であり。家業の行であり、ね。その容易い修行こそ、私は合楽で言われる。言うならば第一の修行、くの一修行だと思うです。修行の第一なりです、ね。修行の一番大切な修行だと、ね。そこでなら、くの一修行と言うのは ま、あれは女の忍者という意味だそうですが、ね。変幻自在、自由自在にです。自分の身体を動かして、言うならば忍びの術と言うような事を、ま、やるわけでしょうけれどもです、ね。いわゆる、くの一、と言うのは、自由自在に、自分の心を使い、または、こなしていく、ということなんです、ね。自分の心を自由自在に使いこなしていく、そこに言うならば、あれもおかげ、これもおかげと、ありがたい、ありがたい、と言う答えを出していく、という。その事に夫婦の者が取り組んでおる、と言われるのです。
昨日も研修の時その話をした事でした。もう、この修行に極まった、と。そこで、なら、くの一修行を成行を、いよいよ大切にしなきゃならない、で、私は昨日、あらためて、研修の時に私がいわゆる様々な修行をさせて頂いた、ね。
先輩、先覚の先生方がなさった、という修行を、もう真似方ですけれども、もう、あらゆる修行をさしてもろうた、それでも私の心に合点がいくようなおかげは受けられなかった。そこで、そういう修行を全廃して、そして、もう私の上におきてくる、すべての事を黙って受けよう、という修行を思いついた、ね。いわゆる、それまでは、只、修行としてです。どんな事がおこってきても合掌して受ける、と言う修行をさせて頂いておったら、それが真の信心であった。真の修行であった。いよいよ成行を尊び成行を大切にする、という事は、このように素晴らしい事であった、という事が、4年経ち5年経ちするうちにわかってきて、ここで、いわゆる成行を尊ぶとか成行を大切にする、と、成行そのものが神様の働きだから、その働きを、あだ、おろそかにしてはならない、というような信心がいうならば開けてまいりました。
そういう信心を、とりつかねて、まとめたものが言うならば合楽理念なんだ、ね。んなら、その合楽理念の、くの一修行という、そういうような、なら、私のその他の修行を振り捨てて、そうした修行に入ったという事が、それがその本気になったらひとっつもむつかしくなかっただけではなくて家族中の者が、その気になって修行してくれた、というこの事実はね、今から考えてもフシギなんです。やっぱりね。結局、私自身がどの位、本気で取り組んで来たか、という事です。だから私が本気で取り組めば家内も、言うならば家内中の者もです。やっぱり、も、神様がそういう働きをして下さる、という事を思うです。問題は本気です。もう、この修行に極まった、という私の場合は極まった、と思ってないですね。
何の修行しても駄目だったから、もう、こういう修行をさせて頂こうということになって、どういう事がおこってきても黙って受けよう、言うなら合掌して受けよう、という行き方が今、合楽で言われる天の心、地の心であり同時に、または一言で言うと土の信心、という事になるのです、ね。だからその気になってね。
二・3日前、千恵子先生のところへ手紙がまいりました。中近畿で夫婦で私の話を聞いて、もう本当に、以来、大変なおかげを頂きご比礼を頂いて、もう、月次祭たんびに信者が増える。〓なんかは、日曜たんびに30名から集まってくる。山を越えた、また向こうの部落にまで共励会が出来るような、おくり合わせを頂いた、という、もう、それから5・6通位お礼の手紙が来たでしょう。
その話をその都度その都度聞いて頂いたんです。けれども今度はそれが、そういうおかげを頂いた、という事じゃなくてですね。主人と協会長との間に問題が、もう、とにかく合楽のおかげで、合楽のおかげで、というのか気に入らない、ということになって来た。もう自分が頑張って、こうしとるけん、というような事じゃないでしょうか。雰囲気が、それで、まぁ、この手紙を書かせて頂いたのも、その叩かれたり蹴られたりして、これでも辛抱しなければ土の信心にもどるだろうか、合楽理念は、こういう時でも辛抱せなんだろうか、と言う手紙が来てたんです、ね。やはりね、皆さんでもそうです。
有難い有難いと言うておるがです。本当にどの位有難いか、ということを神様がおためしなさらなければならない時が必ず来るです、ね。そういうところを、おろそかにしちゃいかんです、ね。
それにはね私共が、例えば四神様のお言葉の中にもありますように、ね。“5のおかげを頂いたら10にも20にも有難いという心になれば次のおかげは20にも30にもなるようなおかげだ”と、こうおっしゃる。また、事実ね、私共がどんなに喜んでも実際は喜び足らんのですよ、ね。
これは、本当、私はいつでもフシギに思うのですけども、ここ2・3日は大学受験の、あの、おかげを頂いた、という人達のお礼が2・3日続いとります。もう、それはやぁ、やぁ、言うちからお願いしとってから何かもう簡単に電話でどん、お礼を言う人もあるし、も、簡単な事ですね。
おかげ頂いた、というような人もございますけどね。も、そういう時にです。本当におかげをおかげと実感する思いが強ければ強いほど次のおかげになるです。だから日頃、信心の稽古をしとかないかんね。 山本さんの、直方の山本さんですね。妹さんが乳癌で手術をするということになった。それで、ま10日後か、15日後か、いよいよ手術をするという事になっておったお届けがありましたら、いよいよ行ったところが、これは手術はせんでもよかろうと言う事になった、ね。言うならばお医者さんの見ちがいではなかったろうか、というような、ま、感じであった。
昨日はそこの合楽の田中さんの妹さんがお礼に出て見えて、先日から心臓の手術のお届けがあっておった。ところがそれも同じ病院にやらせて頂いたらおかげで、そういう心配なことではないと、いうような、おくり合わせを頂いた と言うて昨日はお礼に出て来た。だからこういう時ですね、例えば手術しなければならない程のものであったところをです、神様がね、言うならば癌なら癌というものが、も、影もないように、おかげを頂いた、というような頂き方が一番本当です。私がつは癌じゃなかったげな、と言うことでは、ね。言うなら10のおかげをそれこそ百にもそれこそ千にも思えるようなおかげを頂くことが有難いのです。
では、本当に信心でもなかったらお取り次ぎ頂いてから乳癌は乳癌で手術したり、それこそ苦しい思いをしなければならなかった。も、心臓でも本当にどういう事になっておったか、わからなかった、と言うなら昨日の田中さんところの御姉妹のお届けだってやっぱ、そうです。ここんところば、しっかりあんただんおかげを10と思うとるなら百ぐらいなおかげを頂いた思いでお礼を申し上げなきゃいけないよ、と言うて、ま、話した事ですけども、こういうところはね、やはり信心を本当に有難いものにしていく一つの秘訣です、ね。
50のものを百の有難いと思へば次には百のおかげが頂かれるとおっしゃるのだから、ね。そういう私はおかげでもです、例へば、言うならば土の信心に極まった、といったような信心が常日頃、出来ておらんと、ね。それを有難いものを有難いとして受け止めきらんし、ね。言うならばお礼心というものが何かおかげ頂いた時には言うなら、うすいものになっていって、段々それがおかげをおかげと感じないようになってくる。
これも昨日、一昨日でしたでしょうか、先一昨日だったでしょうか、福岡の野中さんところの弟の逸朗さんが今度技工師の試験を受けておった。まぁ、とにかく大変むつかしそうだから出来るか出来んか、わからんけれども受けてみようで受けたけども、おかげで出来ておった。丁度その時に前後して大牟田から2人の孫さん、だからお母さんにとっては息子とお母さんとおばあさんとが、大牟田から熱心に参って来よった。安藤さんのお導きで、ね。お兄さんの方は何年か浪人しとる。今度、弟さんが受ける、だから兄弟二人で受ける。どうでも、と言うて一生懸命お願いしょったが、その安藤さんところに電話がかかってきた。あ-してお願いして頂きよったけども、二人とも落ちたと、こう言うのである、ね。もう、合楽にお礼に出る勇気もない、というところであろう。それで安藤さんが参って見えた時にその時に出来たと出来ないとのお届けをさしてもらいよって頂いた事を聞いてもらった、ね。
一つの出来た方はね、「こうしてお供えもって来とるけど花結びにしてあるから、これを引いたらパ-ッとほどけてしまう」と、いう感じ、もう試験が出来た、お願いしとったお礼に出た。もう、それでおしまい、ね。そすと片一方の方は、やっぱり「何か知らんけれども、丁度紙包みのようなものを麻で、もう、ぐるぐる巻きにして唐結びに、びしっと、結んであるところ」を頂いた、ね。
麻と言うのは心が乱れる時、という時に頂くんです。それこそ、あれだけ一生懸命お願いしとるのにしかも二人のうち一人なっとん出来ればよかけれども、二人とも落ちた、と、もう心は千々に砕ける。もう乱れに乱れる。もう神様も仏様もないというような時であろうけれども、そういう時を大切にさせて頂いて、はぁ、あの事もおかげであった、と、わかるところまで辛抱しなさい。
神様と、いよいよ、固い結びが出来るようなおかげを、かえってそういう時の方が信心が出来るんです、ね。
ここの熊谷さんの場合がやっぱ、そうだった、ね。様に、言うならば、しっかり信心がそこに、出来るわけですけれども、ね。結局今日頂きますように、おかげから、言うならば、信心を頂だかしてもらう、わからしてまらう、ね。いくら話を聞いても話を聞いてもわかりませんけれども、なら昨日、福山の方達がお届けをされたように本当に私共が、御利益、おかげだけを願って、それにすぐ走りたがるそういうのではなくてせっかく合楽まで参らして頂きますから、真の信心をわからせて頂きたい、合楽理念を、いよいよ、自分のもにしていきたい、そこには何があるか、と言うと、土の信心に極まった、というような事になる。その、極まった、というような、信心はどういうおかげか、と言うと昨日、秋永のお母さんが大橋の頂いとりますのに合楽地上天国と頂いてある、ね。合楽ということは、もう、言わば、神様と氏子との地上天国、いうならば、合楽し合う、合楽の。
『合楽地上天国建設の神様の働きをキャッチせよ、と頂いた、合楽地上天国建設の神様の働きをキャッチせよ、と、ね。その神様の働きをキャッチせよ、と、いうことは、おかげを、キャッチする、という事じゃない神様の働きをキャッチせよ、なんです。おかげを下さろうとする働きをその元は何かと、言うと、私共の上に、おきてくる、様々な問題、そのもの、また難儀な問題、そのものが、ね。神様の言うならば地上天国を創ろう、となさる人間と神様とが仲良うして、合楽し合うて、そこから生みなされる程しの、おかげを頂きたい、と思うて言うなら、神様が、言うなら働いて下さるということは どういうことか、と言うと、ね。さ、お日金(おひうぎん)をやろう<おかげをやろう、という事じゃないのです、ね。建設の神様の働き、その働きそのものを、だから大事にしなければいけない。
どこに、どういう働きがあるから 一から千まで、すべてを神様の御働きとして頂いて、いきよらなければ、どこから、おかげがもるやらわからない、ね。だから、それを、いよいよ頂くことのために、いよいよ、土の信心に極まった、と、ね。土というのは火とか水とか木とか、この頃、私は五行説のことを、言ったんですけども、あの、月火水木金土、のような言ったけど、そうじゃなかったです。やっぱ五行 だから 5つです、ね。火とか水、木とか金、その真ん中にあるのが土であって、この土そのものは、そのすべてを、これに内容として、もっておる、ということ、火は水と合わなければいけない、金は木と合わなければいけない、けども、土だけはそのすべてを内容にもっておる、と、いうことが、五行説に 大変くわしく出ておるそうです。だから土の信心に極まった、ということが言えるでしょうが、ね。
お互い、合楽地上天国に住まわして頂きたい、ね。それこそ、真・善・美に輝く世界と言う貧争病のない世界と言う、合楽では、そう説くのです、ね。その為には、いよいよ、心行・家業の行を行とさせてもろうて、ね。そういう行をしなければ、土の信心が育たない、ね。そして信心の真を表わして行く その表わす時が 10頂いたおかげを、言うならば、百も頂いたような表現をして行け、というのである。
信心の真を表わす、それが徳を受けるのであって代勝りの、おかげを頂くのである。その代勝りのおかげ、という、おかげの内容が、なら、只、おかげを頂いたというのじゃなくて、神も助かり氏子も立ち行く。言うならば合楽地上天国という事になるのです、ね。
その建設の神様の働きが、いつも私共の上に及されておるのであり、おこっておるのである、それをだから、私が言うなら、ね。もう、あの行もこの行もやめた。この行一つに決めたという時の私が心の 言うならば、一心発起というものが皆さんの心の中に出来てくる時にです。その一心発起には それこそ、鬼神も揺ぐような思い、というものが、あるからこそ、あの時分の修行を家族中の者が、それを不平も言わず、不足も言わず、受けぬいてきた、と言うことになるのです。
こちらの、やはり、思いというもの、も、これに極まった、と、ね。千恵子先生に来とる手紙じゃないけれども、こういうことでも、やっぱり辛抱せなならんだろうかと言うような場合でも、勿論、そうたい、と、言う事になるのです、ね。そこんところを極めていき、神様の働きを言うならば、キャッチ出来れる信心、ね。そういう大変な、おかげの頂けることを言うならば気付かせて頂いた、と、いうことが、今、天地の開ける音を聞いて、ということは神様の心の心の奥の心が、わかった時と、いうことになるにじゃないでしょうか。
今、天地の開ける音を聞いて目を覚ました時ではないでしょうか、ね。只、神様を便利屋さんのような、頂き方ではなくて、も、真実、神様と、いよいよ仲良うなる手立、と、いうものを考える
わからせてもらう、と、いうことだと私は思います
「どうぞ」